| NHK大河ドラマを楽しく見る為に!! |
<例>
NHK元禄繚乱の柳沢氏の場合|
源義光裔、信俊(武田信玄に仕う)−安忠┐ │ └信復 └久貴 └長和 │ ├経隆−中略−光治(越後黒川) ├時睦−中略−徳忠(越後三日市) └保経 |
家紋、菱、四菱、葉菱、四陽菱、陽菱の内に八文字、花菱、舞鶴、木瓜。
<浅野家>
清和源氏土岐氏の族
− − 尊卑分脈、及びェ永ェ政系図によると、以下の如し。|
土岐光衡−光時(浅野)−光忠−光盛−国盛−頼隆−長勝=長政(秀吉に仕う)┐ │ └長重(常陸笠間五万三千石)−長直(正保二年、播磨赤穂)−長友(五万石)−長矩(切腹、絶ゆ) |
*長矩の弟 長広は、許されて、宝永七年 将軍家宣に拝謁、同九月十六日、安房国の
朝夷、平、両郡の内の五百石を賜う。その後の系図はェ政系譜に
| 「長広−長純(吉宗に拝謁)−長延、弟 長貞−長邦(ェ政六年御書院の番士となる)」と。 |
<大石家>
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大石弾正左衛門┬平左衛門 ├吉千代(出家) └某 |
@復讐のみを主張 − − 原惣右衛門、大高源五、中村勘助、堀部安兵衛など。
A主家再興と復讐 − − 大石内蔵助中心とするグルーブ。
B主家の再興のみ − − 小山源五右衛門、進藤源四郎など。
<四十七士>
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表門組 − − 大石内蔵助良雄、堀部弥兵衛金丸、片岡源五右衛門高房、原惣右衛門元辰、大高源五忠雄
神崎与五郎則休、奥田孫太夫重盛、岡野金右衛門包秀、矢頭右衛門七教兼、間瀬久太夫正明 岡嶋八十右衛門常樹、近松勘六行重、武林唯七隆重、冨森助右衛門正因、村松喜兵衛秀直、 矢田五郎右衛門助武、勝田新左衛門武堯、早水藤左衛門満堯、小野寺幸右衛門秀富、 吉田沢右衛門兼貞、間重次郎光興、貝賀弥左衛門友信、横川勘平宗利 |
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裏門組 − − 堀部安兵衛武庸、不破数右衛門正種、吉田忠左衛門兼亮、前原伊助宗房、小野寺十内秀和、
磯貝十郎左衛門正久、大石主税良金、潮田又之丞高教、倉橋伝助武幸、赤埴源蔵重賢、 杉野十平次次房、大石瀬左衛門信清、間瀬孫九郎正辰、間喜兵衛光延、奥田定右衛門行高 中村勘助正辰、村松三太夫高直、菅谷半之丞政利、茅野和助常成、千馬三郎兵衛光忠、 間新六光風、木村岡右衛門貞行、三村次郎左衛門包常、寺坂吉右衛門信行 |
<吉良家>
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足利義氏┬泰氏 その処置よろしからざるを咎めて家絶ゆ」と)。 |
<色部氏>
越後国岩船郡色部村より起こる。色部城は色部氏の古館なりと。
桓武平氏秩父氏の族にして、小泉庄内加納に住し、当庄内 色部條総領職 並びに
栗島地頭職たり。建武元年八月、色部総領 秩父三郎長倫が瀬波郡の謀叛人、小泉持長
以下を誅罰したる軍忠状あり。
その後裔 色部修理大夫泰元は、長尾為景に、その子 修理亮長実は、謙信に、
その子 長門守は、景勝に従う。後世 米沢
上杉藩の重臣たり。<英氏>
有名なる書家 英一蝶に始まる。
一蝶は、本姓 多賀、治右衛門安雄(伊三郎)にして、医師 多賀伯庵の子なり。浪華に
生まれ江戸に赴き、罪を得て八丈島に流さる。赦免の際、一 蝶が草花に戯れるのを見て
雅号とす。享保九年正月十三日没。その子 長八信勝(一説に門人)英一蜂(二世一蝶)
と称す、その後 二世一蜂(一挺)あり。初代一蜂の養子 一舟(弥三郎信種)、その男
一川、その男 一桂(信重)、皆有名なり。
<千坂氏>
越後国沼乘郡の名族にして、女堂村鉢盛城(女堂城)による。上杉氏の庶流にして
上杉朝宗の孫、駿河守高春、当国に来たり、当地に居りて、千坂氏を称す。その孫を
伊豆守(対馬守)清胤と云う。上杉家代々四家老の一人なり。後世、米沢上杉藩の宿老也
<奈良屋>
本姓 神田、初代 勝義、江戸深川霊岸島に住し、その四代目 勝豊(茂左衛門安休)、
材木請け負い業を営み、東照宮社殿の修理等で巨万の富を得る。その子 茂左衛門安知
なり。
<紀国屋文左衛門>
紀州加田浦の人、本姓 五十嵐、幼名 文吉、江戸中期の豪商。
船で蜜柑を江戸に運び、又 江戸の明暦の大火に木曽の木材を買い占めて巨富を築く
<桂昌院 将軍綱吉の生母>
本名を本庄光子と云い、本庄宗正の娘。光子の弟 宗資は、幕府に仕え子孫 美濃国
高富一万石、明治 子爵。
この本庄氏は武蔵国児玉郡の本庄より起こりし、本庄氏の後裔と云い、
或は一説に藤原北家冬嗣の後と云う。
春日の局に見出され家光の妾になってお玉の方と云う。従一位。
実はこの官位は、秀忠の母も、古くは、足利将軍の、多くの母が貰っている。
*叙任に当たり「藤原光子」となっているのは、単なる「八百屋の娘」ではない事がわかる。
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<大目付> − − 江戸幕府の職名。老中の配下にあって諸務を監督し、諸大名(細川、
伊達、前田など)の行動を監視し、諸吏の怠慢を摘発した。直接将軍に
拝謁でき、老中の下に有りながらも老中をも監督。
江戸時代中期になると 大名の監視から伝令や殿中での儀礼官の任務を負う。
又、特に1800年代になると 諸外国の船が日本の周りをうろつくようになり、その監視に重きを置くようになり、
その対策を行った。ペリー来航時の大目付 深谷遠江守は 穏便政策を老中に進言。
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