「水刺新秧漫漫平」の読み下しですが、「水は新秧を刺し」では 変な日本語で 読み下しの役目をしていません。
受身の文字が無いが 受身として読む例は よくあるものです。
例えば
陶淵明の詩
「分散逐風転」の部分。(わたしの生も、)風とともに転がっていく。 風に追いかけられて転がっていく。
「風を追いかけて(転がっていく)」のではなく、受動を表す助動詞は 使われてはいないものの、これは一種の受け身表現。
よって、ここは 「水は新秧に刺され 漫漫として平らかなり」と読むのが妥当です。
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「小園」其の三、陸游
この漢詩の読み
村南村北鵓鴣聲 村南村北 ぼっこの声
水刺新秧漫漫平 水は しんおうに刺され 漫々として平かなり。
行遍天涯千萬里 ゆきて天涯にあまねきこと 千万里
却從鄰父學春耕 かえって りんぽに従いて春耕を学ぶ。
この漢詩の訳
村のあちこちで スズカゲ鳩の鳴き声が聞こえる
植えたての苗が突き出て、水面が広々と平らに広がっている。
遠く離れた地の涯までも、遥かな旅をして来た
しかし、今は反対に、となりの親父さんから春の農耕を学んでいる。
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以上、ここは前にも申し上げましたが 昔の日本人の訳にこだわらずに
原文の中国の漢詩の権威の統一見解にあわせるべきだと思います。
中国の原文を転記した文章、更にその転記と日本の僧侶が転記するうちに
くせ字を間違って転記したケースがたまに出ます。
写真機やテープレコーダーのない時代ですから やむを得ません。
今は 電話もあり メールですぐに確認できる時代になっております。
漢字自体は 日本に伝わって独自の新字体になっても 問題ありませんが
杜甫や李白の文章のその意味が 変わって良い訳がありません。
終り。 藤原鎌足公 孫 45代。
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